* * *
翌日の朝。フェリシアはエルバートをお見送りする為、
今日から、
対してエルバートは朝、挨拶を交わした時も、
ドレスと一緒に箱に入っていた可愛らしいエプロンを腰に巻いた姿
いつもと変わらない冷酷な表情で、昨日、
「魔除けのネックレスはちゃんと付けていろ」
「家の外には極力出ないように」
「か、かしこまりました」
「それからフェリシア」
エルバートはフェリシアの右頬にそっと触れる。
「ドレスもエプロン姿もよく似合っている」
まさか、この場で褒めてもらえるとは思わず、火照りを感じると、
エルバートはふっと笑う。
「左腕のブレスレットもな」
(ご主人さま、昨日のブレスレット、
「では、今日も私が帰るまで待っているのだぞ。良いな?」
「は、はい。お待ちしております」
エルバートはフェリシアの頭をぽんぽんし、背を向けて歩き出す。
すると、後ろに立つ微笑ましい表情をしたディアムが小声で、
自分も会釈を返し、
* * *
その後、
「左腕のブレスレット、やはり、
リリーシャとは自分より2歳年上なこともあり、
初めて台所をお借りした時は何も話せなかったものの、
フェリシアは自分の左腕のブレスレットをちらりと見る。
それだけで頬が熱くなって、ドキドキと鼓動が鳴り止まない。
(こんな調子じゃ丸分かりね…………)
「は、はい。昨日はお化粧と髪を整えてもらい、
フェリシアは軽く頭を下げてお礼を言う。
「こちらこそ、やらせてもらって嬉しかったわ」
「昨日、お掃除出来なかった分、今日はお手伝いさせてください」
フェリシアのその頼みに、
リリーシャはふぅ、と息を吐く。
「今までのエルバート様の花嫁候補とはほんとうに大違いだわ」
「ほんとうは立場的にあまりやらせたくはないのだけれど、
「エルバート様の寝室の花瓶に飾るから」
「かしこまりました」
リリーシャの命令通り、台所周りとここの窓拭きをしっかりとして終え、家令であるラズールに図書室までの案内と扉の鍵を開けてもらい、はたきで掃除を始める。すると気になる分厚い料理の本を見つけた。帝都の本屋の時は興味はあったものの、結局読まずに終わってしまった。だからこの本は少しだけでもいいから読んでみたいけれど、(勝手に見たらだめよね…………)そう息を吐いた時だった。ラズールが古い本棚から料理の本を取り、なぜか自分に手渡す。「あ、あの?」「好きなだけ読んで良いですよ」「あ、ありがとうございます」フェリシアはお礼を言って、本を開いた。するとページを捲(めく)る度に知らない豪華な料理ばかりで驚く。「フェリシア様はほんとうに何事にも熱心ですね」「貴女のような人がエルバート様の花嫁候補に選ばれて良かったと心から思います」そんなふうに初めて言われ、気恥しい。けれど、自分もブラン伯爵邸の家令と執事長を任されているのがラズールで良かったと心から思った。そうして図書室の掃除も終え、中庭に向かうと、長い前髪に、髪を三つ編みして丸く透明な宝石がいくつも煌いた紐で一つに束ねたお洒落な青年がいた。その青年は首を傾げ、自分の顔を覗き込む。三つ編みと共に紐の宝石も揺れ動いた。「あなたがフェリシア様かい?」急なことに驚いて固まると、青年は状況を理解した。「おっと、これはすまない、花のように綺麗だったものでして」(わたしが綺麗……!?)「庭師のクォーツ・シーニュと申します」「クォーツ様、は、初めまして。フェリシア・フローレンスです」挨拶を返すと、クォーツはにっこりと笑う。「それでフェリシア様は何をしにここへ?」お花を摘みたいところだけれど、
そして、中庭に戻ると、ネックレスを探し始める。しかし、いくら探しても大事なネックレスは見つからない。フェリシアは左腕のブレスレットを撫でる。このまま見つからなかったらどうしよう。そう、多大な不安に陥った時だった。結界が何かと干渉をしたのか、フェリシアがいる一角だけ結界が弱まり、ピシッ、と音がする。両膝を曲げたまま天を見上げると、黒い影に烏の仮面で顔を隠した異形な人間のような姿のアンデットの魔が現れ、欲シイ、とフェリシアの精神に声を響かせる。その瞬間、魔の力が増大し、体が長く伸び――、パリ、ン。エルバートの結界が破られ、フェリシアの体を乗っ取ろうと襲い掛かり、首を傾げ、ぐあっと嘴(くちばし)を大きく開け、細く長い両手でフェリシアの体を頭上から包み込もうとした。(あ、ご主人、さま…………)* * *エルバートは執務室の椅子に座りながら自分の額を右手で押さえる。家の結界が破られただと?嫌な予感がする。ただえさえ、今朝からフェリシアからプレゼントされたブローチのことでカイやシルヴィオに冷やかされ、頭に来ているというのに。それに――、“来ている”新たな気配を感じたエルバートは指をパチンッと鳴らし、一部の宮殿の結界を外す。すると、肩まで髪を流したリリーシャ瓜二つの式神が執務室の窓の外に飛んできた。エルバートが窓を開けると、式神が中に入り、エルバートの胸元をぎゅっと両手で強く掴む。「エルバート様、フェリシア様がっ」「落ち着け。家の結界が破られたことはすでに分かっている」「フェリシアがどうした?」「強力な魔により中庭の一角だけ結界が破られ、フ
* * *フェリシアが魔の細く長い両手で包み込まれそうになった時、自分の名を呼ぶ声が聞こえ、弓矢が飛んできて魔の右手に当たり、その手のみ浄化され、三つ編みにして一つに束ねた髪を揺らし、弓矢を放ったクォーツの姿が見え、駆け付けて助けに来てくれたのだと分かった。けれど、その直後、怒った魔は長い髪のようなものを生やし、頭上から自分の腰を両内側の髪で縛り上げ、外側の両髪をまるで、大きな口を開けて食べるようにクォーツを目掛けて放った。その為、クォーツは自分に近づけず、駆け付けてきたリリーシャ、ラズールが剣で両髪をかっこよく斬り裂き、髪先を浄化するも、髪はどんどん増え、攻撃は止まず、ふたりも苦戦を強いられている。そして自分も一瞬でも気を抜ければ、すぐに体を乗っ取られてしまうだろう。中庭に出なければ。魔除けのネックレスさえ失くさなければ。そう、深い後悔の念がぐるぐると脳内を駆け廻(めぐ)る。これはきっとエルバートの言いつけを守らなかった自分への戒め。魔はクォーツ達に攻撃を続けながら目線を自分に向け、欲シイ、と精神に強く声を響かせる。フェリシアの瞳が黒ずんでいく。なぜ、そこまで自分の体が欲しいのだろう?祓いの力も何もないのに。帰るまで待っていろとエルバートに言われたけれど、(もう、諦めるしか…………)「エルバート様からの伝言でございます。“今すぐ家に帰る”とのことです!」飛んで戻ってきたリリーシャの式神らしきものの声が聞こえ、フェリシアの瞳に再び光が灯り、気を持ち直す。(ご主人さまが家に――――きっと、早退されたのだわ)大変なご迷惑を掛けてしまった。謝っても許されず
* * *フェリシアは家を守ろうと必死に魔に抗う。しかし、魔が欲シイ、と最大限にフェリシアの精神に強く声を響かせ、腰を縛る力を更に強くした。そして、ぐあっと嘴(くちばし)を大きく開け、再び体を乗っ取ろうとする。自分の声など届くはずもないと分かっている。けれど、「ご主人さま、帰ってきてっ…………」そう、声を絞り出し、右目から一筋の涙が流れた。すると、その声に答えるように。「フェリシア!!」自分の名を呼ぶ声が聞こえた。月のように美しい銀の長髪。コートを両手を通さずに羽織り、結界を張ったエルバートが、一点の光る道に立ち、こちらを見据えている。今まで一度も自分の声など届くことはなかった。けれど初めて自分の声が届いた。(ご主人さまが帰って来てくれた――――)そう熱いものが込み上げてきた時だった。魔の目線がエルバートに向けられ、外側の両髪をまるで、大きな口を開けて食べるように放った。エルバートは剣に手をかけ、瞬時に鞘から抜き、髪先を素早く斬って浄化する。しかし、魔の左手が首を締めようと、ぐあっと伸び、エルバートに襲い掛かる。エルバートは続けて左手も斬り、浄化した。すると魔は邪気で結界ごとエルバートを潰そうとする。しかし、エルバートは結界で邪気を跳ね除ける。魔はこちらに来させないよう、邪気で道を塞ぐ。その邪気をクォーツが弓矢でラズールが剣で浄化し、ふたりはそれぞれエルバートに声を掛けようとするも、エルバートが放つ冷たい気と冷酷な軍人の顔の、祓いの神のような姿に恐れをなして立ち尽くす。そしてエルバートは駆け走り、祓いの力で高く跳び上がった瞬間、烏の仮面を剣で真っ二つに斬った。すると半面が浄化され、魔は混乱し地面に倒れ込む。「フェリシア様!」ディアムとリリーシャが叫び
* * *エルバートはしゃがみ、ベットに寝かせたフェリシアの手を握り締める。寝室に勝手に入ってしまったが致し方無い。少しでも帰宅が遅れていたら、彼女の命はなかっただろうと思うと胸が痛む。「フェリシア、今少しの間、このままでいさせてくれ」こうしてエルバートは暫(しば)し彼女との時を過ごした後、ディアム達を書斎(しょさい)に集めた。エルバートは椅子に座り、目の前の机に組んだ手を乗せ、向側(むこうがわ)に立つディアムからフェリシアが中庭に出た経緯をまとめた話を聞く。「フェリシア様自らリリーシャに手伝いをさせて欲しいと申し出て、ラズールに図書室までの案内をされ扉の鍵を開けてもらい、図書室の掃除を終えた後、初対面のクォーツからエルバート様のお気に入りの花を勧められ」「フェリシア様はその花を摘み、リリーシャに渡そうと台所に向かった際に魔除けのネックレスを落としたことに気づき、花だけを長机に置いて中庭へと戻り、ネックレスを探していたところ」「フェリシア様が結界に近づいた事により、結界が何かと干渉をしたのか、フェリシア様がおられる一角だけ結界が弱まり、魔が結界を破ることができ、フェリシア様は魔に襲われてしまったようです」エルバートは右手で顔を覆う。(まさか私の為に花を摘み、命を失いかけたとは)「フェリシア様の手伝いを断ればこんなことには……」リリーシャが謝ろうとすると、クォーツが止め、続けて口を開く。「エルバート様、中庭に落ちていた魔除けのネックレスにございます。花に埋もれておりました」クォーツがそう伝えると、エルバートは顔を覆うのを止め、魔除けのネックレスをクォーツから手渡しで受け取った。クォーツは後ろに下がり、ラ
* * *「あの、ご主人さま、今から晩ご飯の支度を……」夕暮れ時になる前に目覚めたフェリシアはベットの上で起き上がりながら、エルバートに話しかける。ドレスは寝ている間にリリーシャに着替えさせたとエルバートから先程聞いたものの、まさかご迷惑を掛けた身でこんな時間まで気を失っていただなんて。魔に髪で縛り上げられていたせいで腰はまだ少し痛むけれど、晩ご飯は作らなくては。「支度の必要はない。晩ご飯ならここにある」「リリーシャが作ったものだ。さあ、飲め」エルバートはミルクと野菜のスープをスプーンですくい、口に運ぶ。「あ、あの!?」「なんだ? 冷ました方が良いか?」エルバートは息を吹きかけようとする。「そ、そのままで大丈夫です」フェリシアが口を開けると、エルバートはスプーンを中に入れ、スープを飲ませる。(雲の上のような人になんて恐れ多いことを!)そう恐縮し、目のやり場に困り、スープの入った器を見ると、隣にブルーの花が添えられていた。「あ、その花……」(ご主人さまがお気に入りの……)「私の寝室の花瓶に飾る花を摘みに中庭に出たそうだな」「は、はい、申し訳ありません」「もういい」エルバートはそう言い、フェリシアの首に魔除けのネックレスを付ける。「魔除けのネックレス、見つけて下さったのですか?」「クォーツがな」「そうですか、ありがとうございますとお伝え下さい」「分かった、伝えておく。それからこれも」エルバートはフェリシアに宝石が上品に輝くリボンのような形をしたシルバーの髪飾りを見せる。その髪飾りには2本の三日月の形をした綺麗な垂れ飾りも付いてい
* * *その夜のこと。ブラン公爵邸の居間は凍りついたような空気に覆われていた。エルバートの母であるステラ・ブランが馬車で執事と共に駆け付けてきたからだ。腰が少し痛むフェリシアとエルバートの真向かいに座るエルバートの母は美しく、キリッとした表情でエルバートを見ている。エルバートの父は公務で忙しい方らしく、執事とふたりでここ に駆け付けてきたのだとエルバートと玄関で出迎えた際に彼女からすでに聞いており、エルバートによると、母だけでも厄介で、マナーに厳しい方らしく、面倒そうな顔をした後、 気をつけろ、良いな? と居間に入る前に念を押された。けれど、令嬢でもない自分がこの場に同席しているだけでも、すでにマナー違反な気がしてならない。「エルバート、ブラン公爵邸が魔に襲われるだなんて、一体、 どういうことなの?」エルバートの母が怪訝な顔で尋ねる。「魔が私の力を上回り、一部の結界が破られ、入り込まれた」「よって、今後は結界をより強化し、ブラン公爵邸を守っていく。それだけのことだ」「母上にご足労頂くことも、もうない」「そう」エルバートの母は冷たく返すと初めてフェリシアを見る。「貴女が花嫁候補のフェリシア・フローレンスさん?」「は、はい」エルバートの母は、にっこりと笑う。「単刀直入に言うわ。エルバートに婚約破棄をさせるから今すぐここから出て行って頂けるかしら?」フェリシアは固まり、エルバートは表情を崩さない。「エルバートには、こちらのアマリリス・シェリー嬢とご婚約して頂きたいの」エルバートの母は鞄から新聞のようなものを取り出し、スッと差し見せる。(わ、綺麗な人……)「よって、こちらの事情も兼ねて、貴女には良い額を支払う
“婚約破棄はお受け出来ません、ここも出て行きません”フェリシアの強き覚悟の言葉にエルバートは両目を見開く。その直後、パシャッ!机に置かれていたグラスのワインをエルバートの母の手によって掛けられた。(あ、ご主人さまに仕立てて貰ったドレスが汚れて……)「私になんて物言いなの!? 身分をわきまえなさい!」「エルバートのご婚約はこちらで進めますからその心づもりで」エルバートの母は椅子から立ち上がり、居間の扉からスタスタと出て行く。「奥様! お待ち下さいませ!」「ステラ様、玄関までお送り致します!」エルバートの母の執事とラズールの声が廊下から続けて聞こえ、やがて静かになるとエルバートはフェリシアを見るなり、息を吐く。(ご主人さま、確実に怒っていらっしゃるわ。謝らなくては)フェリシアは椅子から立ち上がり、腰に少し痛みを感じながらも床に跪く。「ご主人さま、せっかく仕立てて頂いたドレスを汚してしまい申し訳ありません」「お母さまに対しても、あのようなおこがましい発言をしてしまい、大変申し訳ありません」「ですが、ご主人さまからの婚約破棄ならば仕方ありません」「ご命令に承従(しょうじゅう)し、今すぐここから出て行きます」エルバートは椅子に座ったまま、フェリシアを見据える。「ならば、命じる」(ああ、ついに婚約破棄されてしまう――――)「婚約破棄はしない、ずっとここにいろ」エルバートの命令の言葉に驚いて、声も出ない。「聞こえなかったか?」エルバートは椅子から立ち上がり、跪くフェリシアの前にしゃがむ。「私がフェリシアにここで共に暮らして欲しいんだが?」フェリシアが号泣すると、エルバートはフェリシアを抱き締める。「ご主人さまっ、ワインが付いて……」「問題ない」
* * *記憶を取り戻してから一週間が経つ朝。フェリシアは髪を一つにくくり、高貴な軍服姿をしたエルバートと居間で会う。けれど、記憶を取り戻してから、エルバートの正式な花嫁候補になったという自覚が強くなり、目を上手く合わせられない。「今日は挨拶してくれないのか」(…! ご主人さまがわたしの挨拶を待っている!?)フェリシアは目をなんとか合わせ、挨拶をする。「ご主人さま、おはようございます」「あぁ、フェリシア、おはよう」エルバートは手をフェリシアの頬に当て、優しく微笑む。(こんなの、まるで、新婚さんのようだわ)* * *その後、しばらくして、エルバートは高貴な馬で宮殿入りし、皇帝の間へと向かう。今日はルークス皇帝にお呼び出しされているというのに、(フェリシアが目をあまり合わせてくれないものだから、今朝はやり過ぎてしまった……気を引き締めなければ)皇帝の間の扉が門番により開かれ、髪を一つにくくり、高貴な軍服姿のエルバートは中に入る。すると、王座の階段の前に何者かが立っていた。床に敷かれた長いレッドカーペットの上を歩いて行くと、王座の階段の前に立つ高貴な軍服を着た者の姿が鮮明となった。この気高き壮年の男はクランドール・ホープ。自分より3歳年上の先輩にあたる軍師長で、自分とは違う軍を束ねており、司令長官を任された際には特に頭が切れ、とても頼りになる存在だ。「エルバート、久しいな。姿を見ない間に正式な花嫁候補まで作るとは成長したな」まさか、ルークス皇帝が玉座から見ておられる前でそう言われるとは。恥ずかしい。「クランドール閣下には敵いませんが、お褒め頂き、光栄にございます」「ふたりが再会でき、何よりだ。ではこれより本題に入る」ルークス皇帝にそう命じられ、エルバート達は並んで跪き、見据える。「帝都郊外の神隠しに合うと恐れられた森にて前皇帝の命を
* * *こうして、翌日からエルバートが早く帰ることはなく、ブラン公爵邸に帰って来てから気づけば、一ヵ月になり、その日の夜は何故か眠れず、フェリシアは居間のソファーに一人で座ったまま、ふぅ、と息を吐く。すると、エルバートに自分の名を呼ばれ、ハッとする。いつの間に居間に入って来たのだろう?足音さえ、気付かなかった。(大丈夫だと言ったくせに、こんな姿を見せては元も子もないわ)「あ、どうなされたのですか? もしかして眠れませんか?」「いや、私は家の見回りをしていただけだ」(家の見回り……魔が入ってわたしが襲われないように?)勤務でお疲れなのに、そこまで気を遣わせていただなんて。「あの、今、お飲み物を……」「必要ない。それより、支度をしろ。今から出掛ける」出掛けるって、こんな夜遅くに?(もしかして、自分に嫌気がさして、捨てられ……いいえ、きっと大丈夫)「かしこまりました」そう了承し、支度が完了すると、ディアムが御者を務める馬車に乗り、お互いに無言のまましばらくの時が流れ、辿り着いたのは、広がる海に白く美しき花が咲き誇る場所だった。(エルバートさまにお姫様抱っこされ来たけれど、とても綺麗な場所…………)もしかしたら、ここはディアムから聞いていた……。「お前を特別な場所へ連れて来たのは2度目だな」「1度目はお前と帝都の街に行った帰りにここへ連れて来た」(あぁ、やはり、記憶を失くす前のわたしと来た特別な場所だったのね…………)「そう、なのですね」「――だが、この木の前に連れて来たのは初めてだ」エルバートはそう言い、たくさんの蕾を付けた大きな一本の木の前でフェリシアを下ろす。(エルバートさまは、記憶を失くす前のわたしも、今のわたしさえも大事にして下さっている)「もうじき、深夜だな。見ていろ」フェリシアはエルバートと共に大
* * *エルバートは執務室の椅子に座りながら、ハッとする。なんだ? このただならぬ気配は。医務室か?エルバートは執務室から飛び出し、ディアムと共に医務室へと駆け付ける。「何があった?」エルバートは見張りの兵に問う。「エルバート様! 医師が寝室までルークス皇帝のご様子を見に出られ、見張りを続けていたところ、医務室内で邪気が発生し、扉が開かず、只今、入室出来ない状況でございます!」「そうか、退いていろ」エルバートは扉に右手を当て、祓いの力を使い、くくった長髪が靡くと、扉を勢いよく開ける。すると床に倒れるフェリシアの姿が両目に映った。「フェリシア!!」エルバートは叫ぶと同時に駆けていき、フェリシアを抱き起こす。魔はいないようだが、魔に弾き飛ばされ触れた箇所から邪気が溢れ、体全体を邪気のようなものに包まれているようだ。エルバートはフェリシアを抱き起こしたまま祓いの力を使う。するとフェリシアの頭痛は治まり、楽になったようだった。(……? 何かを持っている?)エルバートは両目を見開く。「これは私が帝都で渡したブレスレット……」恐らく、中庭の時にネックレスを失くしたのと同じくブレスレットを失くし、探す為にベットから一人で下りたのだろう。エルバートは切なげな顔をする。「もう私のことを思い出そうと頑張らなくていい」エルバートはフェリシアの左腕にブレスレットを付けて持ち上げ、ベットまで運び、寝かす。それから椅子に座るとフェリシアが、か弱き声で発した。「…………花が、見たい」その言葉で、エルバートは希望を感じた。(もしかしたら、私の記憶はフェリシアの心の奥底に残っているのかもしれない)そして、もう一度、あの咲く花を彼女と共に見れたなら。「――あぁ
* * *それからこの日を境にフェリシアは落ち着くまでブラン公爵邸に帰宅させることは出来ないと、祓いの力を持つ医務室の天才医師に診断され、しばらくの間、医務室で治療を受けることとなった。その為、エルバートとディアムも宮殿で寝泊まりすることになり、エルバートからリリーシャ達にその皆を伝えるように命じられたディアムは一旦馬で帰り、自分のせいで、ふたりに多大な迷惑を掛けることになった。早く思い出さなければ。そう思ったフェリシアは医務室に戻って来たディアムに密かに頼み、エルバートが執務で忙しい時に、アベル、カイ、シルヴィオに医務室まで来てもらい、エルバートのことを聞いた。「軍師長の様子なら、執務に集中出来ていない感じですね。着替えもせず、髪もくくったまま、フェリシア様のことばっか考えてますね」「カイ、そんなふうに言ったらフェリシア様が気にするだろう?」「フェリシア様、申し訳ない。でもまあ、フェリシア様が初めてだな、エルバートに色々な顔をさせるのは」アベルに続いて、シルヴィオも口を開く。「冷酷な鬼神だったのに今は惚気ているな」「誰が冷酷な鬼神だ」エルバートがそう言って医務室に入ってくる。「おかしいと思って来てみれば、さっさと出て行け!」エルバートに命じられ、アベル達はフェリシアに会釈をして医務室から出ていった。その後は毎日少しずつディアムからエルバートのことを聞いた。エルバートがフェリシアの家にご婚約の手紙を届けたことからブラン公爵邸で暮らすことになったこと、普段は月のように美しい銀の長髪を流したままなこと、ビーフシチューがお好きなこと、ご主人さまと呼んでいたこと等、これまでの日々のことを。けれど、思い出すことが出来ず、エルバートのことを朝も昼も夜もずっと考え続け、いつしか、8日目の夜になっていた。宮殿のお料理は病人食とは言え、どれも自分には高級で美味しい。けれど早く帰り、自分
* * *――――フェリシアをエルバートとの婚約の意を含めた“正式な花嫁候補”とする。医務室にいるフェリシアの心にルークス皇帝のお言葉が響く。まるで呼びかけられているよう。頭に包帯を巻いたまま、ベットから上半身を起き上がらせ、その身をディアムに支えられながらも、その声に触れるように、そっと自分の胸に両手を重ねる。するとなぜだか分からないけれど、自然と涙が溢れ出た。フェリシアはそのまま、ルークス皇帝のお言葉を聞き届けた。* * *客間でルークス皇帝のお言葉を聞き届けたエルバートは唖然と立ち尽くす。まさか、軍師長の座だけでなく、フェリシアをも守って頂けるとは。エルバートの父と母、そしてアマリリス嬢は絶句し、光がすぅっと消えると、ルークス皇帝の側近は手紙を懐に入れ、口を開く。「ルークス皇帝のお言葉は以上となります」「ならば、帰る」エルバートの父がそう言い、ソファーから立ち上がる。それを見た母とアマリリス嬢も続けて無言で立ち上がった。「では、私が宮殿の出入り口までお送り致します」ルークス皇帝の側近がそう言って扉を開け、エルバートの父と母はエルバートがこの場に存在していないかのような態度で客間から出ていき、アマリリス嬢もふたりに続いて出て行こうとする。しかし、立ち止まり、エルバートを見つめた。「エルバート様、お幸せに」アマリリス嬢は涙を浮かべながら笑顔を見せ、お辞儀をして客間から出て行く。これで、フェリシアはブラン公爵邸から出て行かずとも済むのだな。「ルークス皇帝、恩に切る」エルバートはそう感謝し、顔を右手で覆う。そのまま少し時が過ぎると、フェリシアがいる医務室へと向かった。* * *フェリシアはディアムに心配されながらも医務室のベットで起き上がったままでいた。すると医務室の扉が開かれる音が
「フェリシア様が記憶を喪失してしまわれるだなんて……」アマリリス嬢が動揺した声を上げると、エルバートの父は右手で顔を覆う。「ルークス皇帝までも上回る魔の出現だと?」「そしてルークス皇帝を危険に晒したとなれば軍師長の座を降ろされるのは間逃れないか」「旦那様……」エルバートの母が声をかけ、エルバートはアマリリス嬢を見る。「よって、フェリシアの記憶喪失、そして一時とはいえ、ルークス皇帝を危ない目に合わせてしまった私はまだ未熟である為、アマリリス嬢とのご婚約は破棄させて頂きたく思います」アマリリス嬢が両目を見開くと、エルバートの母が怒りの声を上げる。「ご婚約を破棄するですって!? エルバート、どれだけブラン家に泥を塗るおつもりなの!?」「そもそも、本日の魔の出現はフェリシアさんが原因ではなくて?」「ブラン伯爵邸の付近に魔が出現したのだって、フェリシアさんが訪れた日だったもの。間違いないわ」「だからこれ以上、フェリシアさんとエルバートが関わることを私は決して認めなくてよ」「それに、貴方のことを忘れたのなら丁度良いじゃない。あんな不吉なお人など責任を全て負わせ、今すぐお捨てなさい」「そして、エルバートには旦那様がお決めになられた通り、2日後、アマリリス嬢をブラン公爵邸に住まわせ」「アマリリス嬢と正式にご婚約して頂くわ」エルバートの母がそう啖呵(たんか)を切った。「どこまでフェリシアを愚弄すれば気が済む」エルバートはとてつもない冷ややかな殺気を放つ。まさに、その時だった。失礼致します、と皇帝の側近が扉を開け、中に入って来た。「ルークス皇帝により直々にお言葉を頂戴致しましたので伝達に参りました」「このお言葉は皇帝専用の医務室におられるフェリシア様、ディアム様にも伝わるようになっております」ルークス皇帝がお言葉を?
フェリシアの言葉を聞き、エルバートとルークス皇帝は両目を見開く。まだ混乱している、のか?「フェリシアよ、我のことは分かるか?」「ルークス皇帝……?」ルークス皇帝のことは分かるようだな。「フェリシア、私はエルバート・ブランだ」「エルバート・ブラン?」フェリシアはその名前を口にした瞬間、頭痛が起きて意識を失い、くたっとなった。「フェリシア!!」エルバートは叫ぶ。「エルバートよ、これより酷な事を言うが」「フェリシアの身体は大事ないようだが、どうやら頭を打ちつけたこと、そして魔の影響で一部の記憶を」「お前の記憶を喪失したようだ」エルバートの瞳が揺らぐ。まさか、そのような、嘘だろう?エルバートは切なげな顔でフェリシアを強く抱き締める。「フェリシア……」その後、皇帝の間に皇帝の側近、ディアム、兵達が駆け入り、ルークス皇帝が魔に襲われエルバートと共に浄化したことを伝え、念の為、ルークス皇帝も共に皇帝専用の医務室へ行くこととなった。そしてルークス皇帝とエルバートは大事なく、フェリシアは頭に包帯を巻き、ベットで安静となると、エルバートはルークス皇帝の前に跪く。「ルークス皇帝、責任を取り、私は軍師長を降ります」「エルバートよ、その必要はない。軍師長を辞める事は、許さん」「しかし……」「ただ、このままでは示しが付かないと我の側近が不祥事としてお前の両親に通達をした」「もうじき、宮殿に来るによって対面し、起こった事を全て伝えることとなる。良いな?」「承知致しました」* * *やがて、エルバートの父であるテオと母のステラ、そしてアマリリス嬢が馬車で宮殿に到着し、客間に案内され、待機の状態になったとのことで、エルバートはディアムにフェ
* * *「フェリシア!!」エルバートの悲痛な叫び声が皇帝の間に響き渡る。フェリシアが魔に弾かれた時、彼女の口元が微かに動いたように見え、お ま も り で き てよ か っ たそう言っているように思えた。恐らく、フェリシア自身は気付いていない。心の中で思った言葉が自然と口に出たのだろう。エルバートはフェリシアの元に駆けようとするも、ルークス皇帝の姿が目に入り、ぐっと堪える。フェリシアを今すぐにでも助けたい。だが、(私はルークス皇帝に仕える身。ルークス皇帝を優先に守らねば)エルバートは切なげな顔を浮かべる。すまない、フェリシア。少しの間、待っていてくれ。エルバートは冷酷な顔で剣に手をかけ、抜く。「魔め、フェリシアをよくも!」「ルークス皇帝には触れさせない」魔は袖の中で左右の手を合わせ礼をする仕草から両袖をバッと広げ、少し見えた左右の手から黒き液体のような炎を無数に放つ。エルバートはその炎を瞬時に斬り、浄化していく。だが、一部の炎が軍服の袖を少しかする。すると袖が少し溶けた。袖だけで済んだが、この炎は触れたものを全て溶かすらしいな。魔は炎を放ち続け、エルバートも斬り、浄化し続ける。「くっ」これではキリがない。そう思った時だった。神の憤りのような物凄い気迫を感じた。すると魔も感じ取ったのか固まる。「エルバートよ、我と共闘せよ」玉座から立ち上がったルークス皇帝が気迫を放ちながら言い、玉座の踏段を凛々しい光を司る神のような姿で下りてくる。そして、エルバートの隣で剣を抜く。「今から詠唱を唱える」「お前にも詠唱の言葉を脳裏に流すによって、続けて唱えよ」「はっ! ルークス皇帝の仰せのままに」エルバートがそう答
「フェリシア、そしてエルバートよ、顔を上げよ」フェリシア達は跪きながら顔を上げる。(帽子のショートベール越しでは、よくルークス皇帝のお姿が見えないわ…………)「フェリシアよ、顔が良く見えん。帽子を取れ」フェリシアは命じられた通り、帽子を取る。すると、天蓋付きの玉座につくルークス皇帝の姿が鮮明に両目に映った。美しい紫髪に、エルバートが言っていた通り、優しく穏やかな雰囲気で、(まるで、神様のようだわ)「ほう、これは別嬪であるな」フェリシアは唖然とし、エルバートも驚く。(わたしが別嬪!? お世辞かしら…………)「フェリシアよ、会えて嬉しく思うぞ」「どうだ? ここは心地良いだろう?」そう言われて気づいたけれど、確かにとても気分が良く、体も軽くなっているような。「はい、とても心地が良いです」「ここは特別な結界で守られているからな」「そして今日、エルバートにここに連れて来させたのは、お前のことを知りたいと思ったからだ」「よって、フェリシアよ、我の元へ上がってまいれ」「か、かしこまりました」(わたしのようなものが、ほんとうに上がっても良いのかしら…………)フェリシアはそう思いつつもルークス皇帝に命じられた通り、玉座の踏段を上がっていく。するとルークス皇帝が玉座から立ち上がる。「右手の甲を差し出せ」「は、はい」フェリシアは右手の甲を差し出す。「少しの間、触れる」ルークス皇帝はそう言い、フェリシアの右手の甲に触れた。そしてルークス皇帝は納得すると、触れるのを止める。「エルバートよ、そのような顔をするな」(あれ……? ご主人さま、な